武田信玄とー文字の太刀

武田家は、甲斐源氏の子孫であり、甲斐一帯を支配した大名として有名です。

十八代当主の武田信虎は、甲斐統一を達成した名将だが、同時に暴君としての逸話も多数残されており、子供である信玄との不仲も有名である。武田家を中心とした寧記物語「甲陽軍艦」には信玄が十三歳の時の逸話が描かれている。

幼かった信玄は、信虎が秘蔵していた名馬「鬼鹿毛」を譲り渡してくれるよう使者を通じて頼みこんだ。しかし信虎からの返事は「おぬし、まだ早い。そなたには来年元服した折に武田重代の太刀、脇差、銭を鬼鹿毛と共に譲ろうぞ」と断った。是が非でも馬を所有したかった信玄は「鬼鹿毛だけでも先に頂き、元服の初陣の時までには乗りこなしましょう」と言うことを聞かなかった。これに信虎は激怒し「武田重代の宝物を要らぬのか!では弟の次郎(信繁)に譲るとする!」と言い放ち、信玄からの使者を斬ろうとしたという。ただし「甲陽軍艦」は創作を取り入れたフィクションであり、史料としての価値は無い、というのが現在の通説となっている。

信虎は愛刀家でも有名で、特に名刀「宗三左文字」をこよなく愛した。三好宗三から贈られたこの刀は「義元左文字」とも言われ、信虎が今川義元と和解する際に義元に贈与された。その後義元から信長、秀吉、秀頼、家康と天下人の間を渡り歩き、最後に徳川家の伝家の宝刀として伝わった。

甲斐の虎と越後の龍、武田信玄と越後の上杉謙信は、何度も相まみえた好敵手同士である。甲斐を平定した後、信玄は信濃に攻め入るが、これを脅威と見なした謙信は信濃方面に貴重な兵力を割いてしまう。なかでも五回にわたる川中島の決戦は、現代でも有名な歴史的対決である。しかし二人はただ単に敵対していた訳ではなかった。武田・今川・北条の同盟関係が悪化していた時代である。駿河の今川氏が北条氏と共闘して、太平洋側から甲斐へ至る塩の補給経路を遮断したことがあった。武田氏の領地は、内陸部にあったため、塩分を確保できずたちまち窮地に陥ってしまった。