鎌倉時代中期、備前長船派の祖である光忠によって鍛えられた名刀である。刀長は二尺二寸三厘。拵えは、鎬造、庵棟、猪首鋒、磨上無銘。「燭台切光忠」は伊達政宗より水戸徳川家に譲渡されたといわれている。「端亭漫録」の五十三巻竹甫雑記の小石川御屋敷御道具之内書抜に「一、光忠長二尺二寸正宗殿より来る」と記されている。「燭台切光忠」の名の由来は、「武庫刀纂」の記載では、罪を犯してしまった家臣の一人が燭台の影に隠れた。政宗はその者を燭台ごと切り捨てた。これが「燭台切光忠」の名の由来である。水戸藩2代藩主徳川光圀はまだ幼かった頃、政宗の館で政宗から「燭台切光忠」の由来を語られた。光圀は「燭台切光忠」を欲しがったが、愛刀としていたため政宗は断った。だが、光圀の熱心な懇願を容れ「燭台切光忠」を譲った。大正時代、関東大震災に罹災して所有者の徳川侯爵家(水戸徳川家)は、収蔵した多くの刀剣類を焼失したため、「燭台切光忠」も焼失したと思われてきた。ところが、人気ゲーム刀剣乱舞の盛り上がりにより、徳川ミュージアム(彰考館徳川博物館)は、ミュージアムの収蔵品と「罹災美術目録」との照会を行った。その結果、名刀は90年ぶりに発見された。