節刀の重み

日本の歴史の中で、日本刀に纏わる言葉として「節刀」という言葉が挙げられるのではないでしょうか。この言葉は、天皇と深く結びつきのある言葉であり、当時、軍の総司令官や海外派遣の大使に対し、天皇が一時的に権力を委任する証として貸し与えた刀のことを「節刀」と呼んでいたとされており、別名では「標の太刀」とも呼ばれていたそうです。かつて記された書物には、時の帝である元明天皇が、陸奥鎮東将軍に巨勢朝臣麻呂、また、征越後蝦夷将軍に佐伯宿禰石湯を任じ他とされた時、軍令と共に「節刀」を貸し与えたという記述があるといわれています。この時記されたものが、文字として明記された最初の「節刀」であるとされ伝えられてきたと言われています。この「節刀」は、あくまでも「一時的」な権限移譲という事から、任務が終了した後は必ず返すというのが決まりとされており、ある書物には、返納が1日でも遅れたら答打ち印、10日遅れたら抑留1年とする旨の厳重な懲罰が記されており、その重さが窺われるのではないでしょうか。歴史が流れ、武家が政権を握るようになってからは、軍司令官任命は天皇ではなく征夷大将軍が行うようになったため、朝廷による節刀の儀式というものは見られなくなったとされていますが、幕末維新期の明治新政府軍と旧徳川幕府勢力との武力衝突のなかで、再び復活下とされており、その時、東征大総督に任じられた有栖川宮蛾仁親王に貸与され、本州が明治新政府の勢力の下に完全に入ったとされている日に、親王から明治天皇へと返納されたと言われているようです。この後は、陸海軍のトップとされる「元帥」に授与される「元帥刀」へと切り替わったと言われているようです。

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