備前国長船に住んでいた景光の太刀は、中納言藤房(ちゅうなごんふじふさ)が、楠木正成(くすのきまさしげ)に贈ったと伝えられています。南北朝の乱になると、後醍醐天皇が笠置山から逃げるために従えていたのが、万里小路(までのこうじ)宣房、秀房の兄弟であったと伝えられています。しかし後醍醐天皇は北条側の幕府軍に捕らえられてしまい、隠岐の島に流されることとなってしまいます。このときに、藤房から正成に贈ったとされる刀も、不思議な運命を辿ることとなります。正成は湊川の合戦で戦死したとされ、その佩刀も当然行方知らずとされていました。そこから、どのような経路を辿ったのかは明らかになっていませんが、天下人の豊臣秀吉が所持、次に徳川家康に贈られたそうです。ここでようやく刀の行方も落ち着いたかと思われましたが、その後、大坂の刀屋によって大阪府の河内の農家から景光が発見されたのです。刀に敏かった刀屋が、刀に箔をつけるための伝説ではないかとも言われています。景光に限らず、伝説を持っている太刀ほど尊いとされており、当然ながら高価な値段がつけられる傾向にありました。刀屋は己の言葉だけでは心もとないと思ったのでしょうか、江戸に出ていって、本阿弥家の鑑定を願い出ました。本阿弥の折紙がつけば、後は問題なく世に出せるからです。しかし本阿弥家は、この景光を偽物として鑑定しました。ここで価値はなくなったと思われましたが、愛刀家が買い上げて、次にはどう周旋したのか、公儀介錯人である「首斬り浅右衛門」が買い上げました。ここからは誤伝などが飛び交って真実は闇の中ですが、手元に置いて鑑賞した、サーベルとして軍装したなどさまざまな説があるようです。